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この街で出会う飲食店、料理人、小売店、食材案内
食の街函館の魅力

洋食文化

開港がもたらした新しい食のかたち

開港都市・函館

開港で訪れた外国人の絵

函館は1859(安政6)年、横浜や長崎などとともに開港した街のひとつです。その特有の地形から、イギリス領ジブラルタルにも似た天然の良港といわれ、ペリー提督率いる米国の艦隊はこの街の開港を求め、日米和親条約、日米修好通商条約により港が開かれました。
函館には幕末から明治にかけ、各国から商人ら多くの外国人が訪れ、領事館や教会、修道院などが建てられました。この頃、函館の人たちは、肉やパンを食べる外国人の姿に驚き、牛のと畜や乳搾りなどこれまでにない光景に出会い、西洋の新しい食の知識や料理の方法にも触れることになります。こうして函館に芽生えた洋食の文化は、進取の精神を持った市民によって発展していきました。

函館山の裾野に拡がる西部地区の写真

函館山の裾野に拡がる西部地区には、いまも教会や洋館などが点在しています。

西洋式の食糧生産が始まる

1870(明治3)年、北海道開拓使が函館の隣町・七飯町(当時は七重村)に「七重官園」(農業試験場のような施設)を開設しました。900ヘクタールもの広大な敷地のなかで、外国人技術者による西洋式農法の指導や、西洋野菜やリンゴなどさまざまな作物の試験栽培が行われました。また乳牛・肉牛・羊など家畜の放牧も行い、食肉生産のほか、チーズやバターの製造も行われました。

明治の写真師・田本研造が撮影したとされる、当時の「七重官園」の様子をうつした写真帖のなかの一枚。(函館市中央図書館所蔵)

「七重官園」の様子をうつした写真帖のなかの一枚

洋食文化が花開く

その後、函館の洋食文化が花開き、食肉や鶏卵、海外から輸入された缶詰製品など、洋食の食材販売が盛んになり、街には日本人向けの西洋料理店が続々と誕生し賑わいました。もっとも、レストランでの料理の価格は多くの庶民にとって高嶺の花だったようです。

1886(明治19)年、当時の「函館新聞」に掲載された五島軒の広告

1886(明治19)年、当時の「函館新聞」に掲載された五島軒の広告
(函館市中央図書館所蔵)

今に続く老舗料理店「五島軒」

1879(明治12)年にロシア料理店として開業した「五島軒」は、今もなお、この街にその名を留めるレストランです。初代料理長の五島英吉は、ハリストス正教会でロシア料理の技法を習得し、開業しました。1886(明治19)年には函館の人たちのフランス風料理の嗜好に合わせて、横浜からベテランコックを雇い入れ、西洋料理店に転業。開業以来、幾度か大火で店を焼失したり、終戦時にはアメリカ占領軍に接収されるなどの多くの苦難を乗り越えながら、市民に愛されてきました。

現在の「レストラン五島軒」。1934(昭和9)年築の建物は「国登録有形文化財」。

現在の「レストラン五島軒」の写真

ラーメンの発祥「南京そば」

1884(明治17)年の「函館新聞(当時)」の広告に、「南京そば」という言葉が登場します。函館の洋食店「養和軒」で広東省出身の店主によって供されていたとされる料理ですが、これが日本におけるラーメンの発祥といわれます。日本初のラーメン店「来々軒」(東京浅草)の開店より26年も前のこと。函館の当時の多彩な食文化と、進取の精神をもつ市民の気質を物語るエピソードのひとつです。

1884(明治17)年の函館の洋食店「養和軒」のイメージ

当時の商業案内「商工函館の魁」に掲載された「養和軒」。RESTAURANTの看板が見られる。
(函館市中央図書館所蔵)